牛になった話

 

まどろみの中、目が覚めた。時計の針はすでに21時を回っていた。夕飯を食べて呆けていたらいつのまにか眠ってしまっていたようだった。起き上がろうとしたがうまく起き上がれず、そこで俺は初めて違和感を覚えた。なんとか両手両足を床について這うように歩くと、部屋の姿見に大きな牛が一頭写っていた。驚いて俺は声をあげたが、部屋には叫び声の代わりに「モォ〜」と間の抜けた鳴き声が響き渡った。そして俺は気がつく。食べてすぐ寝たから牛になっちまった。

 

 

「食べてすぐ寝ると牛になるよ!」

実家にいた頃には母親によくそうやって怒られたものだ。一人暮らしを始めるとそんな小言を言ってくれる母親もいなくて、生活のリズムも乱れがちになってしまっていたことから、食後だろうが昼間だろうがついつい眠ってしまうことが多かった。

そもそもなれるものなら牛になってしまうのも悪くないと思っていた。家畜ないし野生動物になってしまえば煩わしい就職活動や人間関係で悩む心配もない。草を食んで眠るだけの生活も案外悪くはないのではないか。

 

 

……認識が甘かった。そんな考えを少しでも持っている軟弱な輩が俺の他にもいるのなら、今のこの俺の姿を見せてやりたい。一頭の牛にとって、八畳のワンルームはあまりに狭すぎて身動きが取れない。

 

ひとまずツイッターのネタにしようとしたが、こんな身体でテクノロジーを操ることが出来るはずもなく、その前足でiPhoneの画面を割ってしまう。

 

外に出ようと試みるも、こんな前足じゃあ扉の鍵を開けることもできない。いっそ窓をぶち破って部屋を飛び出すことも考えたが、俺が今この狭い家を飛び出したところで、その後の展望が一切の手詰まりであることはわかりきっていた。外に出たところでどうすればいい、どこに向かえばいい。そもそも住宅街に突如として現れた牛がみすみす野放しにされるはずもない。ヒトの住むところに現れてしまった野生動物が殺処分されてしまうような事件なんかよく耳にする。きっと政府は俺の味方をしてくれない。

 

思索の末、俺はいよいよ一切の行動を断たれてしまった。もうずっとこのままなのかと思うと、ひどく悲しくなって泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が部屋に響いた。

 

 

動物として生きる以上避けられない事象がある。さっき食った夕飯はとっくに消化されているのだ、催してしまった。俺は慌ててトイレに向かったが、案の定ドアノブが開けられない。必死になって何度も前足を高くあげて、ドアノブに引っかける。かろうじてドアノブは回ったが、ドアを引くことができない。何度繰り返してもうまくいかないので、俺はいよいよ牛の力に頼ることにした。体当たりだ。引き戸を思い切り押してドアをぶち破った。木屑が飛び散るなか、ふと敷金のことが頭に浮かんだ。牛が住んでしまった以上そんなことはいくら気にかけても仕方がないというのに。

 

そんなことよりも気にかけなければならないことがあったのに、俺はドアを開けるまでそれに気がつくことができなかった。

 

牛がどうやって人間のトイレで用を足すというのだ。

 

廊下を汚しながら俺は自分の情けなさに泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が廊下に響いた。

 

 

もう何日経っただろうか。汚れっぱなしの部屋で、俺は仕送りの段ボールに入っていた保存食やジャガイモなんかを漁ってどうにか食いつないでいた。レトルトのビーフカレーもあったが流石に食べる気にはなれなかった。

ジリ貧なのはわかっていた。食料はもうすぐにでも底をつきそうだ。牛がこんなに食べるなんて知らなかった。このまま俺は、よりにもよって牛として、この部屋の中で孤独死してしまうのだろうか。

 

 

インターホンが鳴った。これまでも何度か鳴ることはあったが、その全てが宅配便の配達員で、不在票を入れるだけで帰ってしまう彼らは僕の助けにはならなかった。だが今回は違った。外から俺の名を呼ぶ声は、とても耳馴染みのあるものだった。たった数日聴いていないだけなのにその声は懐かしくすら思えた。しばらく見ない俺を心配に思ったのだろう、友人が家を訪ねに来てくれたのだ。

 

しかしいくら親愛なる我が友といえど、山月記よろしく人外となってしまったこの牛が俺であると気がついてくれるのだろうか。毒虫に変身したグレゴール・ザムザのように迫害されてしまうのではないか。そう考えると、彼を出迎えるのが怖くなった。俺は玄関で立ちすくんだ。

しかし俺に気がついてくれるとしたら、それは彼以外ありえない。ましてや配達員なんかでは絶対ないのだ。ならばここで彼が俺に気がついてくれることに賭けるしか俺に未来はないのではないか。

 

固唾を飲み込み、カルビをくくる。鍵は開けられないから、何度もドアにぶつかった。開いてくれ、届いてくれ、溢れる想いで何度もぶつかった。

 

体当たりを幾度となく繰り返し、やがてドアは開いた。ドアの向こうには懐かしい友人の姿があったが、俺は体当たりの勢いのまま彼を突き飛ばした。友人は死んだ。俺は泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が街に響いた。