西友で涙ぐむ

 

音楽を聴く時間がめっきり減っている。それでも人並みより多少は聴いている自負こそあれど、在宅で仕事しながら聴いて終業後にゲームしながら聴いての毎日を繰り返していた日々と比べると幾らか見劣りはする。

特にここ数年は週次で追いかけるラジオが増えたことでより一層耳ん中で爆音で音楽が鳴ってる時間は少なくなった。

そんな中で今の俺が最も真摯に音楽と向き合っている時間は、西友で買い物をしている時だ。

週の半ばぐらいの、ちょうど愛顧のラジオのストックが切れたぐらいの日の仕事終わりに、ただただ見慣れた店内の景色を無心で周回しながらイヤホンの向こうに耳を傾けている時にこそ、俺は全くのニュートラルな気持ちで音楽に触れている。

 

話は変わるがここ一年でまるで涙腺が緩くなった。これまでどれ程感動してもせいぜい目頭が多少熱くなるくらいで落涙には至らなかった俺のまなこは、ことあるごとにびたびたと濡れるようになった。俺はルックバックを観に行った映画館で隣の席に気を遣うほど咽び泣き、からくりサーカス全43巻を読み終えるまでに8回泣いた。

まったく個人的な話だが、その中でも特に自分にとっては、曲を聴いて涙を流すと言うのがこれまではまるで理外のことのように思えていた。有り体に言えば所謂"泣かせにきている"ような作劇に対してまんまと感動させられることはあっても、さんざ聴き慣れた曲の一節が殊更心に沁みるようなことは無かった。無かったのに最近は取り立てて歌詞が琴線に触れることもないような曲を聴いている最中にふとグッとくることがままある。

その結果俺は最近、西友で買い物をしながら時たま涙ぐんでいる。少しばかり正気じゃないと思っている。

 

さらに話は変わるが先週祖父が亡くなった。身内の不幸を話の種にしてから久しくないが、3月に祖母が亡くなってから間も無くしてのことだ。

じいちゃんの話は実に7年半も昔にここでも一度していて、その時点で彼は多少なりボケていたのでここ数年の状態は察するに余りあるものだった。まともに会話をしたのも最後に会ったのもずっと前だ。言い方こそ悪いがたったひと月前にまるで元気な姿を見ていたばあちゃんの時よりは幾分かそれを受け入れる準備もできていた。

 

じいちゃんの火葬に向かう直前、実家のテレビでは『チコちゃんに叱られる!』が流れていた。その回で取り上げられていた話題は「映像に音楽が加わるとより感動するのはなぜ?」といった内容だった。その理由をかいつまんで話すと、映像だけを享受している時にはその一点の情報にのみ集中している感受性が、音楽という外的要素を加えられることで散漫となり、結果として自分自身の共感とかそういう盤外の所まで意識が行くとかそういった要因によるものだそうだ。つまりは本筋から逸れることで却って感動しやすくなるらしい、ということだと思う。齧り付いて見ていたわけじゃないから細部が怪しいけど多分大体あってる。気になるならお前らもチコちゃんを見ろ。

歳をとるごとに感性は衰えて行くのに、歳をとるごとに涙腺が緩くなると言われているのが長年疑問だった。近年涙腺が緩くなって、じいちゃんばあちゃんが亡くなって、チコちゃんに教えてもらってようやく合点が行った。感性が衰えた結果、これまで感じていたよりも色々手前の部分で感動した結果、俺は泣いているのだ。火葬場で流れるオルゴール調の『千の風になって』を聴きながら、俺はまた少し涙ぐんだ。

 

葬儀が終わって実家のある北海道から仙台に帰り、近所の西友で買い物をする最中にシャッフルしていたプレイリストの中から玉置浩二の田園が流れた。もちろん取り立てて歌詞が響いたりだとか今の心境と重なったりだとかすることはないのに、西友の鮮魚コーナーで田園を聴きながら俺は少し泣いた。その涙が果たしてどれに起因していたのか、俺にはわからなかった。