そらをとぶ

 

6月某日。東京の暮らしにもすっかり慣れてしまったが、いつまでも終わる気配を見せない梅雨のじめついた空気にはどうしても慣れない。今日も今日とて降り続ける雨は俺の記憶が正しければもう5日以上その記録を伸ばし続けている。やまない雨はないと昔誰かが言ったらしいが多分あれは嘘だ。

癖毛と偏頭痛に嫌気がさしても、出社時刻は刻々と迫ってくる。雨が降ったらお休みなんて横暴がまかり通るのは南の島の王子様だけなので、観念して身支度を整え、家を出た。

 

通勤途中、道路脇の花壇に咲いていた草になぜか目を惹かれた。桃の実のように鮮やかなピンク色をした球根から、ギザギザした細長い葉が生えている。こんなおかしな草、いままで生えていただろうか。

 

近寄ってその球根に触れてみる。意外と柔らかく、弾力があった。葉っぱの方にも触れてみようと手を伸ばした刹那、突風が吹いて球根がふわりと宙に浮いた。さっきまで周りの雑草に遮られてよく見えなかったその姿が露わになる。桃色の球根からは猫のような耳が生えており、真ん中には琥珀色の小さな目玉がふたつ――

 

ハネッコだった。

 

お題箱

「1番好きなポケモンで小噺をひとつ」

 

ハネッコはそのまま突風に拐われるように流されると、反対車線の側の歩道へと飛んでいった。車道を走るトラックがその姿をほんの数秒隠すと、ハネッコはどこかへと消えてしまった。写真の一枚でも撮っておけばよかったとひどく後悔する。

 

しかしなぜあんなところに?業務中にも度々、あのハネッコのことが頭をよぎる。休憩時間にスマートフォンで調べてみると、ポケモン図鑑を取り扱っているサイトが見つかった。

図鑑のハネッコの頁にはこう書かれている。

 

そよかぜが ふいただけで ふわふわ うかんでしまい となりまち まで はこばれる。

 

推測は容易だった。今朝の突風で反対車線まで飛ばされたように、ハネッコはいくつもの風に運ばれてこの街まで来たのだろう。どこから来たのかは皆目検討もつかないが。

いずれにしろ、今日はずいぶんと風が強い。今日の風はまたあのハネッコを、どこか知らない街まで運んで行くのだろう。四葉を見つけたときのような些細な幸福感を胸に、また会えたらと密かに思った。

 

翌朝の通勤路、ハネッコはいた。普通にいた。昨日と同じ花壇に埋まっていた。

どういうわけか、風の気まぐれか、またここに帰ってきたらしい。俺が近寄ってひと撫でするとハネッコはその琥珀色の目を細めてニッコリと笑い、また風に運ばれるように飛んでいった。

 

次の日も、また次の日も、ハネッコはその花壇にいた。この場所が気に入ったのだろうか。何度となく、どこへともなく吹き飛ばされても、ハネッコはそこに戻ってきた。俺も通勤途中に花壇のそばに立ち寄ってハネッコを撫でてやることが毎朝の日課になっていた。

 

そんな日がひと月ほど続いたある日の早朝、テレビの向こうのニュースキャスターが言った。

「昨夜より列島に接近していた台風X号は、急速に勢いを増して上陸する見込みです。関東および東海に、大雨や強風のおそれがあります」

危機感が浅く、余程大きなものでもなければ普段は台風のニュースですら然程気にも留めないのだが、今回ばかりは別だ。俺は癖毛もそのままにして、大慌てで家を出た。

 

普段なら寝ぼけ眼で歯を磨いているような時間に、俺はずぶ濡れになりながら通勤路を駆け抜けた。いつもの花壇には案の定、あのハネッコがいた。

まだ台風も近くはないが、それでも普段よりずっとずっと強い風だ。ハネッコはその小さな前足で花壇の雑草にしがみついていたが、俺の姿を見ると前足を離し、風に押し出されるようにして俺に飛びついてきた。

安堵するのも束の間、すれ違うサラリーマンの折りたたみ傘までもが強風に飛ばされて、俺の顔面を強打した。その衝撃で俺は手を放してしまった。

 

俺の手を離れたハネッコはそのままはるか上空へと連れ去られるように飛んでいってしまう。必死に追いかけたが、風船のように流されるハネッコはどんどん遠ざかっていき、やがてその姿を見失った。

 

昼には台風はその軌道を反らし、大きな被害がこの街に及ぶことはなかった。だが、ハネッコは翌朝になっても、週末をまたいでも、いつもの花壇にその姿を現わすことはなかった。

 

やがて夏が来て、秋が過ぎる。雪が降りだすといつもの花壇からは雑草すらも姿を消した。もちろんあのハネッコは見る影もない。あの日の台風はハネッコをどこまで連れて行ったのだろう。今ごろハネッコはどの辺りを漂っているのだろう。毎朝花壇の横を通り過ぎるたびに、そんなことを思った。

 

 

 

この街に来てから一年が経った。通勤中の景色は既に見飽きて、社会にだってようやく少し慣れてきたような気がする。寝ぼけ眼で歯を磨き、身支度をして家を出るとあたたかい陽射しが降り注いでいた。いつもの花壇は、いつの間にやら名前も知らない色とりどりの花で埋め尽くされている。その中のひとつ、白い綿毛を咲かせた青色の球根がこちらを見ていた。