1,600円のパスタを食べることによるモラトリアムからの脱却

 

下書き供養。3年くらい前の俺が美味しいパスタを食べた時の日記。

 


パスタは良い。安いものなら一束およそ数十円程度の単価にして、十分とかからず油も使わない調理で、百円もしない市販のパスタソースをかけるだけで食事として完成する。

その手軽さと安価さがゆえに貧乏学生の侶伴として広く消費されてきたパスタの功績は多大なるもので、僕の学生時代も自炊といえばそればっかり、溢れかえるパスタの山を泳ぐ日々だった。

 

そんな食生活が災いしてかパスタと貧困が強固な等号で結びついてしまい、学生の時分より外食で取り扱われる千円程度のパスタだとか果てにはコンビニで売ってるワンコイン相当のパスタなんかが圧倒的にコストパフォーマンスの劣るものに思えてしまいどうにも食指が伸びなかった。

 

しかしてそのような偏見に基いて本当に美味しいパスタを食べることなく、それなりに残っているであろう余生を過ごしてしまうのはいかがなものなのだろう、と最近になってようやく思い始めた。

 

そりゃあ世に溢れる食材だってピンからキリまであるわけなのだから、例えばスーパーに並ぶ安いサイコロ状の牛肉しか食べたことのないやつが「牛肉は脂っこいだけで全然おいしくないね」などとぬかすようなことがあれば僕だって「いやいやそれは違うんじゃないの」と異を唱えざるを得ないだろう。

同じように、安物の麺に出来合いのパスタソースを和えたものを食べた程度で得られる粗悪な知見の杓子定規に囚われ、その他一切の美味しいパスタと邂逅する機会を自ら放棄してしまうのは愚かと言うほかない。

 

なので先日、仕事の昼休みにちょっと値の張るパスタを食べに行った。職場の最寄りにある少しだけかしこまったイタリア料理店で、茄子とモッツァレラチーズがトッピングされた牛挽肉のボロネーゼ1,600円を「ままよ!」って思いながら注文した。

 

美味いパスタは麺からして違う。普段、不定の茹で時間で雑に調理するボソボソの麺とは似ても似つかない、僕の知ってるパスタとはまるで別物である。むしろ僕がこれまで茹でていたそれをパスタと呼ぶことの方がおこがましいのではないかと思い至るほどだ。

店で提供されるパスタは具沢山であることもたいへんに喜ばしい。普段食べる市販のパスタソースに入っている爪の先ほどの大きさしかないベーコンの切れっ端を小指で弾き飛ばすほどの茄子がゴロゴロ入っている。皿の中に点在するモッツァレラが熱で溶けて僅かに形を崩し麺と絡み合うことで、いくら食べても口飽きすることのない食感を与えてくれる。フォークを握る左手は留まることを知らず、『ンまぁーいっ!!味に目醒めたァーっ』と心の中で声を上げながら、ひと皿をぺろりと平らげた。

 

とにかく、この度食べた1,600円のボロネーゼは、大げさに言うのならばコペルニクス的転回とでも呼ぶべきほどの価値観のアップデートを僕にもたらした。

 

二十年近く生きて五年も一人で生活をこなすようになると日常のあらゆる所作が形式化されていき、とりわけ"食"に関していうならば、朝は必ずパンを食べるし水曜日と木曜日の夜は鶏むね肉を食べる。誰に決められたわけでもないのにそんなルールが僕の中にはできあがっている。

金がなければパスタを茹でるし、少し贅沢をするならば良い肉か良い魚を中心に据えたくなる。

でも少し贅沢をするためにパスタを食べたっていいのだ。貧すれば鈍するという言葉もある。たまの贅沢には型破りに、その時食べたいものを糸目をつけずに食べよう。100均のレンチンでパスタを茹でられるあの容器のやつを捨てよ、町へ出よう。